こんばんは、ツカマコです。またの名を本野虫子と言います。
先日、新田次郎著 「剱岳 <点の記>」を読み終えました。
新田次郎さんはあの数学者でエッセイストの藤原正彦さんのお父上で、また戦後の超大ベストセラー「流れる星は生きている」の著者・藤原ていさんのご主人でもあります。言うまでもなく藤原正彦さんはあの「国家の品格」の作者です。あ、こりゃ失礼、本の虫なんで好きな作家達のことをついあれこれと。。。
さておき。
昨年映画化されたこの小説「剱岳<点の記>」は、明治末に命をかけて日本最後の前人未到の山・剱岳に登った測量師達の物語です。
新田次郎さんの書く文章は簡潔で力強く、まるで主人公の山男たちと同じ様子です。
そんな小説の中で目を引いたのが次の一文。
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「これは飽くまでも私の考えだが、どうしても剱岳に登るというのならば
(中略)
長次郎あたりに見当をつけて置いた方が有利かもしれない。」
古田盛作はそう云って、彼の妻が持って来て、置いて行った茶碗のお茶を一口飲んだ。
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前後の文章まで掲載していないので読みとり難いかもしれませんが、
”彼の妻が持て来て、置いて行った茶碗のお茶を” という表現により、小説の中の人達が会話をする中で長い時間が経過している様子が伺えます。そしてこの古田盛作さんがまだ色々考えている様にも感じ取れます。
例えば、同じようなことを書くなら
”古田盛作はそう云って彼の妻が持ってきた茶を飲んだ”
或いは
”古田盛作はそう云って茶を飲んだ”
そんな表現でも良い訳です。
ところが、「妻が持って来て、置いて行った茶碗のお茶を一口飲んだ」と表現されることによって、時間や空間の奥行きが出る、というように感じられるのです。
私は文学者でも小説家志望でもなく単なる熱心な読者なだけですので、上述の感想が作者の意図通りかどうかは知りません。
ただ物凄く判るのは、ことほど左様に「言葉(表現)によってこれだけ受け取れ方が違う」ということです。
これは小説の世界だけでなく、私達の発する言葉ひとつをとっても同じことが言えるでしょう。
コミトレでは「言葉のワードローブ」を増やしてみよう、とよく言います。
「何故かいつも同じ事でうまくいかない」という事がある時、私達の無意識で発する使い慣れた言葉(口癖)が機能的には働いていないことがあるかもしれません。
自分の癖(口癖・思考癖)を観察すると同時に、言葉のワードローブ・表現方法を見つける為に、良い小説に触れることをお勧めします
/tkd
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