「立つ瀬」

おはようございます、ツカマコです。
最近とみに自分の中で「相手を”立つ瀬”に立たせる」ことの重要性を感じています。
毎日人と接する中でいかに瞬間的に相手の立つ瀬を奪おうとしているか、に気付く日々。(「気付いている」ので、その時点で回避は出来ていると思うのですが。)
例えば、自分がお勧めのAというものがあったとき、他にも似たようなBもCもDもあって、相手はBを持ってたりする場合。思わず、BよりAが良いよ、と勧めてしまいそうになります。が、これもしっかり「相手の”立つ瀬”を奪う」コミュニケーション。よくよく自分の中を見て見ると、Bは良くない、Aが良い、という価値観を持っていることに気付きます。
しかし相手はその時点ではBが良いと思っている。それを否定された上でAを勧められても、そのお勧めは受け取れない。だって、(自分を)否定されているのだから。。
こんなことを考えていて思い出したエピソードがあります。
私が10歳位の頃のこと。
滅多に会わない親戚の叔母(母の姉)と一緒に出掛けた私は、叔母に買ってもらった漫画本を熱心に読んでいました。読み切りのその1冊を読んで感動した私は熱心に叔母にその漫画を読んでくれるように頼みます。
すると叔母は「どれどれ」と手に取りさっと読み「面白いね」と言ってくれました。
内容は漫画に良くある女子中学生の奮闘記みたいなもので、今思い返しても特にどうということはないようなものだったと思います。
しかしそれに非常に感銘を受けた私は、どうしてもその感動を共有したい、という想いで叔母に漫画を読んでもらいたかったのです。
自分の両親ならまず漫画を買うこともなくまた読むことなど決して無かった当時の私としては、「おばちゃんが私の感動を汲んでくれた!」という新たな感動を手に入れました。
今大人になって思い返して、あの漫画はやはりどうということはないシロモノだったと思います。
しかし、叔母のこの行為はまさに「相手を”立つ瀬”に立たせる」ことそのもの。
10歳の子供とて、10歳なりに意志も哲学もプライドも持っています。
長らく教育現場に居た叔母は自然に”子供の立つ瀬”について体得していたのかもしれません。
このことが私にとっていかに感動的な出来事だったか、ということは30年近くたった今でもその時のことを鮮明に覚えているという事実が物語っています。
この話は上述のA・B・Cの話とはちょっと違う形のエピソードですが、何事も、まずそこにあるものを否定するのではなく、そこにある「存在」を認める(=立つ瀬に立たせる)ことの意義の大きさをお伝えしたかったのです。ニコニコ
追伸:両親の名誉のために申し添えると、うちの両親は「漫画の読み方」(縦横斜めの配列)が分からないそうです叫び
/tkd